そのうなぎを家に持って帰えってから朝ごはんを食べて、また川へ出かけ、うなぎの餌のハゼを捕まえ仕掛けをして1日が終わるという毎日でした。
山歩きも好きで、山菜取りとか植物を観察するのも好きでしたね。
中学の頃は、「さつき」とか「えびね蘭」などを育ててました。
絵を描くのも好きで、近畿地区で賞をとるほど熱中してました。
吉野
清水オーナーは料理人としてスタートされましたが、お子さんの頃は料理を作ってたんですか?
清水氏
母親の料理の手伝いをしてた程度ですが、料理への興味はありましたから中学の頃はコックになってみたい、何か手に職は付けたいという漠然とした気持はありました。
ただ、その頃は、自分が興味を持っている事で、将来像はころころ変わる時期でした。
小学生の頃から理科が好きで、特に生物が大好きだったので、植物などに触れることができる仕事にも興味はありましたし、高校では美術部にも入っていたんで美大進学にもあこがれていました。
将来の事をそろそろ決めないといけない時期になると、農園のあるレストランをやってみたいという気持があって料理のシェフになろうと真剣に思うようになりました。ですから、高校卒業後は、調理師学校か大学の農学部のどちらかに行くかを迷いました。
ただ、大学というのは、いつでも行ける所ではなかったので、まずは、大学に進学することにしたんです。
吉野
農園付きのレストランですか?果物などを育て、それを使って料理を作るっていう発想は、清水オーナーならではですね。
ただ、調理の道を歩むんだったら、ストレートに調理師学校に行こうとは思わなかったんですか?
清水氏
農学部の場合は、卒業後は、農業、園芸関係だけと思われがちなんですが、遺伝子や農産加工品の事も学ぶわけですから食品メーカーにも進めますし、食に関連した仕事にも就ける機会も多いんです。専攻によっては栄養士の資格もとれるんです。ですから将来の料理の仕事に何か役に立つだろうと思ったので、近畿大学の農学部へ進みました。
吉野
実際に大学で学ばれた事が、今の仕事をする上で役に立っている事はありますか?
清水氏
そうですね。今の仕事の関係で生産農家に行く機会が多いのですが、在学中に生産農家に行って実習をやったお陰で、生産者の方々のお話は、深く理解できます。お菓子は農作物から出来ているので、お菓子作りは応用農学のひとつとも言えます。ですから、お菓子作りの際に使う果物や食材を、専門的に学べた事は、良い経験だったと思っています。
吉野
大学時代に調理に関わる事はされたのですか?
清水氏
在学中は、ずっと和食や洋食の店でアルバイトをしました。1年の夏休みの1ヶ月間は群馬の有名なホテルで調理のバイトをしました。
その時期は観光シーズンだったので1ヶ月間は、休みがありませんでした。朝の6時30分から夜の11時まで働きづめという経験をした事があります。ですから、料理に携わる仕事は、大変だなあと思う反面、自分の作った料理でお客様が喜んでいただいているのを見ると、自分まで本当に嬉しくなるんです。大学3年の頃には、はっきりとした意思で料理の道に進もうと思いました。
吉野
大学卒業後はどこに就職されたのですか?
清水氏
「東京アメリカンクラブ」という会員制のレストランに入りました。
ここはレストランの他にも結婚式場やスポーツクラブがあって、お客様の半数がアメリカの方でした。
日本のお客様には、芸能界の方も多いところでした。
吉野
どなたかの紹介だったんですか?
清水氏
大阪のホテルの支配人の紹介でした。そのホテルのシェフが私の親戚でしたので、その関係です。
当時の「東京アメリカンクラブ」の料理はフランス料理でスイス人のシェフでした。先輩のコックには横浜のホテルニューグランドや精養軒系統の方が日本人シェフでした。入った時は、皆さん本当に雲の上の人みたいに見えました。
入社すると最初は、ホールでお客様の応対などを経験してから調理の厨房に入るんですが、私の場合はパンやケーキを作る部門に回されて半年間パティシエをやった後に、コックの仕事をすることになりました。
吉野
「東京アメリカンクラブ」の後は、どこに行かれたのですか?
清水氏
先輩の紹介で神奈川の葉山にある「ラ・マーレ・ド・チャヤ」に勤めました。
ここはレストランですが、入った当初は、デザート作りをする機会が多かったですね。
吉野
清水オーナーがコックからパティシエ志望に変わったキッカケとはどんなものだったんでしょう?
清水氏
コックの仕事は瞬発力のいる仕事です。次々と入ってくるオーダーに瞬時に対応して火を使いながら、臨機応変に動けないといけないし、タイミングを見計らって料理を仕上げてお客様に提供しなければならない。
それに引き換えパティシエの仕事は、お客様や時間に気を配り緊張感を持続させないといけないスタイルの仕事ではありません。
「アメリカンクラブ」や「ラ・マーレ」で、お菓子作りもやった経験があったので、両方を比較してみてお菓子作りに魅力を感じるようになりました。もちろんお菓子作りも、コックの仕事とは別の意味で緊張感の連続ですが、パティシエの方が、私の呼吸と言うか・・・リズムに合っている気がしたのです。
それに私は、朝型人間です。夜が中心のコックの仕事よりも、朝早い時間から仕事を始めるパティシエを本格的にやってみようと思ったんです。そこで、神戸の「VアンドV」という洋菓子店にパティシエとして入りました。
吉野
神戸というと清水オーナーの故郷の近くですね。「VアンドV」という店は、どんな洋菓子店ですか?
清水氏
はい、故郷に帰るという気持ちでした。「VアンドV」という店は、服装メーカー「ワールド」という会社が運営している洋菓子店です。
吉野
本格的な洋菓子店の仕事が始まるんですね。不安はありませんでしたか?
清水氏
パティシエとしてもかけだしでまだまだでしたが、今まで厳しい職場を経験してきたので、何とかなるという気持ちでした。
吉野
どういう立場で仕事をされたんですか?
清水氏
2番手という立場で入りました。シェフの次のポジションです。
「VアンドV」では、レストランやカフェの店も展開していましたが、仕事は、お菓子作りが中心でした。
吉野
一般企業の洋菓子部門というのは、通常の洋菓子店とは違った部分もあったんではないですか?
清水氏
そうですね。私が入って1年で、シェフがホテルに移るために辞めたのでシェフ代行として「VアンドV」グループの菓子部門の仕事をやることになりました。
その当時、会社として、カフェの他にイタリアンジェラードの店などの店舗が、新たにオープンするという時期だったので、通常のお菓子の新作の考案や製造スタッフとの日々の仕事もやりながら、店舗設計の担当者やパッケージデザイナー、カメラマンとの打合せなどで、かなり忙しかったですね。
吉野
大変なお仕事でしたね。
清水氏
大変な時期でしたが、今にして思えば、同じ店で何の展開もない通常の日々よりも、1軒でも新たな店をオープンさせるほうが勉強になりました。その後、「ラ・マーレ」の総料理長だった熊谷さんが、ご自分の店をオープンする時に誘っていただき1987年に南青山の「レストランKIHACHI」のオープンに携わりました。
吉野
東京に戻ってこられたんですね。
清水氏
はい、「レストランKIHACHI」ではシェフパティシエとして腕をふるう事ができました。
レストランのデザート作りから始まりました。その後、相模原市の相模大野にある伊勢丹相模原店に「KIHACHI」が入る事になりましたので、オープンして丸々1年は、相模原でお菓子作りに取り組みました。
その後、銀座店がオープンしたのを機会に「KIHACHI」として本格的にパティスリーを展開するようになりました。
その後、シェフパティシエから製菓長という立場で、マフィンの店やアイスクリームの店の開店にたずさわり、「KIHACHI」の規模が大きくなってきました。
吉野
「KIHACHI」には何年間おられたんですか?
清水氏
27歳から13年間いました。30歳を過ぎた頃に独立しようかと思った時期もあったんですが、「KIHACHI」には、優秀なフードビジネスのコンサルタントの方が、いらっしゃいましたので、もう少しそういう面を吸収したいという思いもあって、結局は40歳までお世話になりました。
2000年に現在の「セ・ラ・セゾン!」がある場所から少し離れたテナントを借りて独立しました。
吉野
相模原を独立の場所に選んだのは何か理由があるのですか?
清水氏
「KIHACHI」の相模原店がオープンした時に、初めて相模原を訪れ、その後、住んでみて気に入ったというのが最大の理由です。
3人目の子供ができた時に、それまで住んでいた市ヶ尾の住まいが手狭になり、独立する4年前に相模原に家を建てたんです。ですから、独立して店を出すなら家に近いほうがいいと思ったんです。
一時は田園都市線の沿線か、いっそ生まれ故郷の関西にしようかと悩んだ時期もありましたが、実際に住んでみると、相模原に昔からお住まいの方々には、子供から年配の方々まで幅広い年代層がいらっしゃる成熟した街というのが分かりましたし、それに小さなお子さんをお持ちのご家族も多く、大学もたくさんあり神奈川で20代が一番多い街なんです。将来、必ず発展していく地域だと確信しました。 |